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数学者に『数は実在しますか?』って尋ねると、数は実在していると即答するそうです。
あなたは、数が実在していると感じるでしょうか。相対性理論ではありませんが、この世界において、絶対的なものはひとつもありません。
例えば、この大地のなかで、私たちは、しんどくて布団にくるまって外に出られないと感じているその時に、私たちの地球はとてつもない速度で移動しているのです。
何かを感じていることも、実際には、ある立場に立って、ある状態を前提として、そう感じているだけなのです。
数だけでなく、色も、かたちも、存在する在り方に絶対的なものはありません。宇宙の外側や、小さな量子の在り方も、わたしたちにそのルールの奥深さは理解できません。そう考えることが、気持ちが楽になる事に繋がりませんか?
私は、常々、今なぜここにいるのだろうと自分に問いかけてきました。この世界にいるということ、今この仕事をしている事、誰かの元に生まれ、誰かと関わりあうこと、誰かに出会い、話をして、生きている、それは何故だろうと、ずっと思って生きてきました。
重要なのは、直感や違和感というものは、現実的で、物理的な事象よりもたぶん大事なものだということでした。
ところで、苦しみの原因のひとつは、自分を否定される事です。私はまた否定されるかもしれない。誰かがそう思うことは、ほんとうに、とても悲しいことです。
でも、ほんとうのところは、自分というものさえも解体出来ます。これが自分だと、思うものも、実は意識のなかでは分解してしまう事が出来る。自分の体内には、別の生態系があるし、自分の外側と内側のあいだのどこが、結局自分なのでしょう。
誰かが見ている『私』は、それまでに生まれ落ちたどこかで、誰かに教えられたり、必要とされて振る舞うようになった、『私』の入れ物のようなものです。外国に産まれれば、言語は違うし、同じように、いろいろな在り方はそれまでに学習したものです。だから新しい在り方や、習得するべきこと、学習するべきことは、学べばそのように簡単に出来るようになるでしょう。
今朝(5月5日早朝)、畑のバケツに卵の産卵の為にバケツの色に擬態したカエルがいました。彼女は、今日の夜に雨が降る事を知っていて、そこで擬態して産卵を待っているのでしょう。どうやってそこに水がある事がわかったり、今日の夜に雨が降るのかがわかるのか?
こういう別の生命体のものの見方の総称を、生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルは『環世界』と名付けました。すべての生命体はそれぞれに違った世界の見え方を持っており、その固有の知覚世界の集合体がこの世界だという見方です。
植物には植物のものの見方があるし、地中の生き物もそうだし、空を飛ぶ生き物も、水中に生きる生き物も、それぞれ全く違う『認識』を持っています。ヒトはそれをヒトの見方に体系化しただけ。それが人間が『自然』と呼ぶものです。
人間は概念の生き物なので、数を実在と捉える事も出来るし、人の在り方を否定する事も肯定する事も出来る。
きっと私は、いままでに苦痛を感じることがたくさんあったから、こんな考え方を自分のなかに取り込んだのだと思います。
でもそのぐらいこの世界は生きづらく、しんどいと思う。
前を向いて、自分を信じて、生きていこうとする。
つらい日があっても、眠って起きたら、また歩こうと思う。
愛という言葉がある。
私はその言葉は、誰かや何かの存在そのものを、大切に思い、そのままで「いてほしい」と願う気持ちだと思う。
条件や見返りを越えて、ただ「あなたが、あなたであること」が嬉しい。
そんな静かで深い感情が、愛の本質だと思う。
私は側にいて、大事にできる愛する人を大切にしていたい。
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